中世頃までは現区域の大半が海辺に面していたと推定される。海道・甲岸・入船(以上、現在の萩之茶屋付近)、曳舟(現在の天下茶屋北付近)、今船(現在の天下茶屋1丁目付近)などの旧地名は、海辺に面していた痕跡を伝えていると考えられている。 後奈良天皇は1557年4月、宮中への大鯛献納に対する感謝の意を示す文書を、今宮村に対して出した。区内にある弘治小学校の校名は、文書が出された当時の元号・弘治に由来している。 区の南部の玉出は12世紀以降開発が進められ、中世・近世には生根神社を中心とした環濠集落となっていた。 近世になると戦乱の舞台となったことを示すような記録も残されている。天正年間(1573年-1593年)には本願寺門徒が織田信長と戦い、木津川口の防衛のために城塞を築いたと伝えられる。区北部にある出城の地名は、このときに築かれた城塞があった場所と伝えられていることに由来している。 区の中部から東部にかけての一帯を指す天下茶屋の地名は、現在の岸里東2丁目にあった茶屋に豊臣秀吉が立ち寄って休憩したことで、その茶屋が「天下の茶屋」ないしは「殿下の茶屋」といわれたことが由来と伝えられる。天下茶屋の地名の由来となった茶屋は1945年の大阪大空襲で焼失したが、敷地跡の一部は史跡天下茶屋跡となっている。 区の西部の津守・南津守・北津守は、江戸時代中期以降津守新田として開発が進められた地域である。 現在の西成区の区域は江戸時代、大坂三郷に勝間南瓜をはじめとする蔬菜類を供給する近郊農業地帯となっていた。土壌が蔬菜栽培に適していたことや、大坂三郷近郊にあたり肥料類の入手に恵まれていたことが背景にあげられる。蔬菜類は天満青物市場に運んで販売することになっていたが、市街地北部にある天満は現西成区域にあたる村からは遠方だとして、道頓堀や湊町など大坂三郷南部での立ち売りもおこなわれた。立ち売りは天満青物市場との間でしばしば紛争となっていたが、1809年に13品目に限り難波一帯での立ち売りが公認されるようになった。現在の浪速区にある木津市場は、大坂三郷南部での蔬菜類の立ち売りを起源として発展したものである。 近代以降[編集] 明治時代には町村制の実施により、現在の区域は西成郡今宮村、木津村、勝間(こつま)村(のち玉出町)、川南村および東成郡天王寺村の一部となった。 1899年(明治32年)の大阪市第一次市域拡張により、今宮村と木津村の北部が大阪市に編入され、今宮村南部と木津村南部が合併して新たな今宮村(のち今宮町)となった。また川南村の大半も大阪市に編入されたが、唯一編入されずに残った川南村大字津守新田が津守村として独立した。 明治時代後期以降、南海鉄道や阪堺電気軌道などの開通により、天下茶屋から北畠(現阿倍野区)・帝塚山(現阿倍野区・住吉区)にかけての界隈が郊外住宅地として開発された。また大正時代以降大阪市の拡大と共に、大阪市に近接している地理条件から人口が急激に増加し、住宅地、工場地へと変貌した。特に南海線の駅がある花園町、岸里、玉出などは商店街が栄え、木津川沿いは繊維、鉄工、造船などの大工場が立地した。 1925年(大正14年)の大阪市第二次市域拡張の際、旧西成郡今宮町・玉出町・津守村・粉浜村が大阪市に編入されて、西成区として区制施行した。区名は旧郡名に由来する。 区役所は1925年の区発足当初、花園町(現在の花園南1丁目)の旧今宮町役場を使用した。1927年に千本通3丁目15(現在の千本南1丁目3番、朝日プラザ付近)に移転し、さらに1954年(昭和29年)12月10日に西皿池町(現在の岸里1丁目)の現在地に庁舎が竣工して移転している。2001年12月には2代目の現庁舎に建て替えられている。 区発足当初の町名は、旧今宮町域では旧大字を引き継いだ37町、旧玉出町・旧粉浜村・旧津守村についてはそれぞれ全域を玉出町・粉浜町・津守町とした。1927年に旧玉出町域を12町に、旧粉浜町域を4町に分けている。旧津守町域は1948年に町域を東西に分け、津守町東・津守町西の町名ができた。 1943年には大阪市の行政区の分増区に伴い、隣接する住吉区と区の境界を一部調整して現在の区域となった。区南部の粉浜町のほぼ全域と津守町の一部を住吉区に分離するとともに、山王町、松田町、聖天下、天下茶屋、天神ノ森、北加賀屋町の一部、桜井町の一部(当時の町名)を住吉区より編入した。このうち、山王町、松田町、聖天下、天下茶屋、天神ノ森は旧東成郡天王寺村にあたり、同じ区内に旧西成郡域と旧東成郡域が共存することになった。 1973年に住居表示を実施し、現在の町名に整理されている。 オイルショック以降は産業構造の変化と共に、木津川沿いの大工場はほとんどが消え、商店街も空き店舗が増加し、住宅地も老朽化-して高齢者が多くなった。